曖昧な場の可能性
「小学生になってみる!」と宣言したアーティストは、明確なプランはあえて持たないまま、様々なクラスを訪問し、ある時は教室の後ろから授業を眺め、またある時は席について授業を受け、毎日給食も一緒に食べた。授業が終わればそのクラスの児童や先生と、授業の中身のことや日常の活動について積極的にヒアリングをしていった。
活動も3日が経過した頃だろうか。アーティストは、様々な対話の中から、人間の成長に関わらず、ほぼ変わらないものが人間にはあることを発見した。それは、眼球の大きさであった。眼球の大きさは、成長に伴って大きくなり個人差が出てくる他の部位とは異なり、ほぼ変化しないという。
またアーティストは、その発見と同時期に、クラスや集団行動に馴染めない児童の存在にも注目し始めていた。アーティストは、アトリエとしてお借りしている教室を、そうした児童が気持ちを落ち着かせるための場所として活用していることも後に知ることになる。
それから数日後、おそらくその二つの発見を踏まえて、『うちゅう人のまえならえ』という作品を制作した。人型に切り取られたうちゅう人たちは、児童や先生の体のシルエットにかたどられたもので、全身緑色に着色された。そして、背丈の大きなものも、小さなものも、目の位置で串刺しにされた状態で「前ならえ」をしている。誰が大人で誰が子どもかはもはや区別をなくした存在として佇んでいる。
休み時間には、5体1組にユニット化された作品をみんなで担いで練り歩いたり、文字通り一列に前ならえをしてみたりと戯れる。アーティストにとってこの作品は、あくまでもパフォーマンス作品と言い切る。背の順で並ぶ児童達に対して、目の高さで並ぶうちゅう人がとてもユニークに見えていた一方で、とても奇妙な姿に映ったのは私だけだろうか。
その後アーティストは、3年1組に展示されている実物の習字や、個人の目標などが書かれたカードなどを黙々と模写したり、自身が使用しているアトリエに串刺しのままのうちゅう人達を配置したりして、最終的に『コピー3年1組』という作品を制作した。(実はうちゅう人は、3年1組の児童の人数と同じ数制作されていた。)
作品を見た人達のリアクションは様々で、作品を見て絶句する子もいれば、逆にはしゃぎ回る子もいる。「素晴らしいですね!」と絶賛する先生もいれば、「胸に突き刺さりました!」と感慨にふける先生もいる。異様な光景を生み出したことは間違いないが、子どもと大人の区別が曖昧なうちゅう人達が出入りする『コピー3年1組』が、どのような意図で制作されたのかは、アーティストが発見し注目した存在を手掛かりに、皆さんの推測にお任せしたい。
一つ言えることは、年齢、時間、行動など様々な決まりごとが凝縮された学校という特殊な環境の中に、極めて曖昧で不確定な存在を許容する場を生み出すことでしか救われない、あるいは証明できない何かがあったのだと推測する。
おそらく学校的には、デリケートな問題に触れられる部分もあり、表現の内容には慎重にならざるを得ない状況もあったはずだ。にも関わらず、様々な対話を重ねる中で、最後までアーティストの意思や考えを尊重していただけたことには改めて感謝したい。
いずれにしても、今回目の当たりにした活動や作品の数々は、アーティスト本人が子どもになろうとする意思がなければたどり着けない境地において生まれたことは確かである。その姿勢と態度は、これからの「おとどけアート」において学校との新たな向き合い方の一つとなることを私は確信している。
コーディネーター 漆