去年の11月に藻岩小学校にて行われたアーティスト・インスクール。
藤木さんの行為、そして問いは、学校だけでなく「おとどけアート」事業そのものに突き刺さるものでした。
2014年度の「おとどけアート記録集」からの文章を載せます。
「体験の場」と「思考の場」
これまでのおとどけアートでは、考えることも無かった取り組みが正にこの藻岩小学校という現場で展開された。
「何もしない」
この活動は、これまで当然のごとく生み出してきた「アートによる体験の場」を排除することはから始まったのだ。 それは、本事業の在り方や私たちコーディネーターの意識に突き刺さる強烈な問いであったと同時に、学校教育に対する問題提起で もあったと推測する。
何もしないと宣言しながら、ただその中で、圧倒的に取り組んだことがある。 「自ら考える」ということと「他者と向き合う」ということだ。
特別な何かを仕掛ける訳でもなく学校中を歩き回り、時に先生、時に子どもたちと会話する。そして、何もしない空き教室の中で、教育 現場の日常やこの活動そのものの違和感や気付いたことについてアーティストとスタッフで話し合う。日々その繰り返しである。 このいたってシンプルな活動が、これまでのおとどけアート事業では欠落していたことが徐々に理解できていった。
「何かしなくてはいけない」という前提にとらわれ、その段取りに追われていく中で、取りこぼされてきた物事が多々あったことを、「何も しない」ことにより気付かされたのである。 アーティスト、先生、子どもたち、更には自分自身との対話が欠除していること。そして、教育現場という状況に対しての可能性や違和 感、疑問などを感じ取り、考えることが圧倒的に不足していたことを思い知る機会となった。 それは同時に、これまでの活動の在り方そのものが、本来当事者である先生方や子どもたちの「学校という場について自ら考える」とい う行為を奪ってきたのではないかという疑念を抱くことにも繋がっていった。
これまでの活動すべてが、そうした主体性や能動性を奪ってきた訳ではないと考えているが、状況を変化させる為の場づくりにおいて 重視してきたのは、今回意識的に排除した「アートによる体験の場」を生み出すことであり、それに奔走してきたことは間違いない。
今回の活動を通じて、単に奇抜で目新しい「アート」を学校に「とどける」ことで「体験の場」を生み出すことをゴールに設定するのでは なく、アーティストの存在やその活動の「体験」をきっかけに、場の当事者である先生や子どもたちが、日常に疑問を抱いたり、共に考え たりする「思考の場」を育むことこそが、私たちの目指す状況の変化に繋がるのではないかと考えるに至った。
ちなみに矛盾するかもしれないが、アーティストは、決して何もしなかった訳ではない。ヘルメットにカメラをくくり付け、学校の日常を 撮影した。その映像を編集し、学校内の10カ所に「伝言モニター」という名の小型モニターを設置し日々上映した。「アーティストって どんな人?」と書かれたボードを持って子どもたちや先生に質問していくこともあった。ただそれらは、何かのゴールに向かって創作の 結果生み出した作品ではなく、子どもたちや先生が自らの日常を別な視点から再認識する為の装置にすぎない。そこから何かを感じ、 考えるきっかけを生み出すかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにしてもこれまでのおとどけアートで生み出されたもの とは明らかに意図が違うものであったことを補足しておきたい。
しかしながら暗中模索し、学校を徘徊する藤木氏の行動は、その場にいた子どもたちや先生たちにはどのように映っただろうか。
ある女子児童が藤木氏に対して、 「藤木さんにとっては、アーティストってどんな人だと思いますか?」
と質問してきた際の戸惑いと表情が忘れられない。 今後も藻岩小学校での藤木正則氏の活動は続く。
コーディネーター 漆崇博
ひとまず2014年度の2週間の活動は終えましたが、今後も藤木さんとの藻岩小でのアーティスト・イン・スクールは不定期で続きます。
次回へ向けての先生方との対話の様子。